二進法の迷宮-Hotel California-
Facebookが社名をMetaに変更したのは今年の4月でした。ITの巨人、GAFAの一角を占めるFacebookが、すでに手にしているその名声を捨てて、”メタ”という何だか胡散臭い名前に変更したことに、世界中の人達が驚かされました。どうやら創始者のマイケル・ザッカーバーグ氏が、SNSに依存したビジネスモデルでは遠からず経営は行き詰まるという予測のもとで、ビジネスのベクトルを「メタ・バース」に向かわせる決断を下して、ついでに社名も変えてしまったという事が顛末の様です。「メタ・バース」は、最近よく聞く言葉ですよね。どうやらそれは、何だかヘンテコな弁当箱の様なものを顔に装着して、弁当箱の中で見えている映像で展開される仮想空間を体験する事の様です。そしてその空間では、アバターという自分の分身が、他の人たちのアバターと様々なコミュニケーションを行う事が可能なのだそうです。アバターは、それぞれが操る人そのものなので、実際に日本にいる私とアメリカにいるメリージェーン(仮名)が、この仮想空間の中でデートが出来たりするのだそうです。もちろんこの技術はメリージェーン(仮名)とデートをする為に開発されたものではありません。メタ・バースの技術は当然ゲームとの親和性は高く、その他に会議やコンサート、教育やショッピング、他にも無限にその技術の応用は可能だと言われています。ザッカーバーグ君は唐突にこの技術に飛びついたわけではなくて、ずいぶん前からこの技術に銭の匂いを嗅ぎ取っていた様です。2012年にQclus社というベンチャー企業が開発した、Qclus Riftという画期的なVRヘッドセット(あの弁当箱です)が発売になりました。金の匂いに敏感なザッカーバーグ君は速攻で、Qclus社を買収して、このヘンテコな弁当箱の技術を我が物にしたという事です。弁当箱の中の世界では、アバター同志のコミュニケーションに留まらず、ブロックチェーンという技術を使ったお金のやり取りや、商取引などへの応用が期待されています。ブロックチェーンとはなんぞやと申しますと、ブルーザー・ブロディが振り回しているチェーンではないことは確かですが、正直なところ私にはよくわかりません。なんでも、ビットコインやNFT(非代替性トークンという代物らしい)という非代替性の暗号資産等のデジタルの世界でのデータの取引をブロックのように纏めて、それを鎖でで繋ぐように結びつけて保存しておく技術なのだそうです。申し訳ございませんが、自分でも何を言っているのかよくわかっていません。とりあえず難しい事はさておき、ブロックチェーンを使うと、偽造などが出来ないので、デジタルの世界で行われた様々な取引が本物であることが保証されるのだそうです。恐らくこの技術は、これからの社会、人々のコミュニケーションに劇的な変化を及ぼすという予感がします。しかしこの様なパラダイムシフトが我々の生活をより良くしてくれるのか、私は大きな疑問を持っています。
コロナウィルス蔓延の状況下、リモートワークが広く利用される様になり、私達の働き方は大きく変わりました。リモートワークは事務作業や会議・ミーティングに留まらず、営業活動にも幅広く活用されている様です。スマートフォンやタブレット端末の普及により、今ではWelbox MeetingやTeamsなどのアプリを使えば、資料を用いての営業活動が可能ですし、簡単な打ち合わせ程度であれば、LINEのビデオ通話で相手の顔いろを伺いながらの営業も可能です。つまり、様々な新しいツールを効率的に用いることで、真夏の炎天下に汗だくになったり、また雨の中ずぶ濡れになったりして外回りをする必要がなくなる可能性があり、営業マンにとってはありがたい技術であることは確かです。しかし、いくら相手の表情がわかるといっても、画面越しでは本当の雰囲気はわからないと思います。相手が発している雰囲気やオーラ、そういった気を肌感覚で感じる感性が営業には必要なのです。にこやかに面談していても、相手の足元を見ると猛烈に貧乏ゆすりをしているなんて事はよくある事なのです。特に、重要な商談や高額な案件の契約などはリモート面談はリスクが大きい為、こういった仕事は今でもリモートでは行われていない様です。
営業マンの不始末で、上司同行の上での謝罪はよくあるシチュエーションですが、リモートだとなんだか謝罪する方もされる方も真剣身がない様な気がして、なんだか間抜けに見えてしまいますね。私は不謹慎ながらこんな状況を想像してしまいました。担当者半沢:「社長、先日は申し訳ございませんでした。本日は常務の大和田と同席の上で、zoomをさせていただきました。」中野渡社長:「ああ、大和田常務。ずいぶんご無沙汰ですね。」大和田常務:「社長。先日はうちの半沢が大変な失礼をしでかして、大変申し訳ございませんでした。謹んでお詫び申し上げます!」中野渡社長:(おやまあ、常務が画面から突然消えたぞ。またこの男は土下座をしているな。全く土下座が好きな男だな。でも画面に映ってないんだけどねえ。困った男だよ。土下座よりやる事があるだろう。お詫びなら寅屋の羊羹か千疋屋のメロンだろう。メロンはどうしたんだ?全くもう。誰もお前の土下座なんて見たくないんだよ。実際映っていないんだけどね。)「いいんですよ常務。お顔を上げてください。」(ちっともよくないぞ。全くもって。羊羹はどうしたんだ?メロンはないのか?とりあえずこいつらのところの扱いは半分にしよう。)どうやら私の脳みそには虫が湧いている様です。しかし、お詫びやお礼の必須アイテムといえばやはり手土産ですよね。アキラさんもヒルマ教授の所にミチコ先生の手術費用を請求するときには欠かさずメロンを持参していますよね。(ちなみにドクターXです)リモートの時代になれば、こういった麗しい日本の商習慣が失われてしまう様でなんだか寂しいですね。それともメタ・バースの技術を用いたら、仮想手土産(なんじゃそれ?)みたいなものが出来る様になるのでしょうか?
メタ:バースという概念は元々SF小説から由来していて、1992年に発表されたニール・スティーブンソンの「スノウ・クラッシュ」という作品の中でこの技術が初めて紹介されたそうです。多くのITクリエーターがこの作品に触発されてこの技術の研究を始めたと語っています。以前からVR(バーチャル・リアリティー:仮想現実)については様々なコンテンツが存在していました。思い返してみると、こうした仮想空間や疑似空間は、私が子供の頃から、TVや雑誌、小説や漫画など様々な媒体で扱われてきました。小学館の学習雑誌(中1コースなどですね)では、ヒマラヤの雪男やUFOなどの世の中の不思議で怪しげな話が定期的に掲載されていました。そういった与太話の中に、船の墓場、魔のサルガッソ海の話や、飛行機や船舶が行方不明になるバミューダ・トライアングルの話が掲載されていました。今では誰も信じる人はいないと思いますが、当時の鼻垂れ小僧達は皆この様な与太話を信じていて、サルガッソ海やバミューダトライアングルには時空の歪みがあるだの、四次元空間への入り口があって全く別の世界に迷い込んでしまってそこから抜け出すことが出来なくなるなどという世迷いごとを、さも自分が見てきたかのように語り合っていたものでした。私が子供の頃は、ちょうど日本のSFの黎明期で、このような異空間や仮想空間については、SFの世界で重要なテーマとして様々な作品が発表されてきました。私が特に印象に残っているSF作品は、光瀬龍さんの「百億の昼と千億の夜と」という作品です。萩尾望都さんが漫画化して、少年チャンピオンに連載されていました。その中で、ゼンゼンシティという仮想の街で、A級市民がカプセルの中で楽しい夢の世界に浸りながら、その世界から抜け出すことが出来ずにひたすらカプセルの中で惰眠を貪る、という場面が描かれていました。私は大きなインパクトをこの作品から受けていて、私にとって仮想空間とは抜け出すことができなくなるという恐怖を伴うところなのです。
VR(仮想空間)がSFの世界だけではなく、より私たちの身近になったのは、コンピュータの進化なしには語れません。CG(コンピュータ・グラフィックス)の進化によって、非現実な世界が本物の様に表現される様になりました。TVゲームが好きな人は、その進化にについてリアルな実感をされているのではないでしょうか?私はゲームをしないのでよくわからないのですが、有名な「ドラゴンクエスト」や「ファイナル・ファンタジー」といったゲームでも、初期のグラフィックスは本当に幼稚なものであった様です。しかしTVゲームも世代が進むにつれてCGが劇的に進化していき、そして綿密に練られた世界観を伴った、リアルに近い仮想空間、まさしくVRを作り上げて来た様です。そしてインターネットとつながることによって、今までは、あくまでコンピュータとの対戦であったのが、ネットで繋がっている全く知らない誰かとの対戦が可能になり、TVゲーム自体がコミュニケーションツールの一つとなっている様です。そういった方向性がメタ・バースの考え方に繋がっていったと言われています。コロナ禍で大人気となった「あつまれどうぶつの森」というゲームは、一種のメタ・バースだと言われています。
TVゲームは没入感、つまり夢中になれることが必要な要素であると言われています。しかし、これは私の偏見なのですが、ゲームへの没入感は、現実の社会からゲームの世界に逃避してしまうことによって生じるものだと思っています。ゲームの世界では、失敗してもリセットが可能です。そして責任を取る必要もありません。ゲームの世界の中では、他人を殴り倒したり斬り殺したりしても誰からも文句を言われません。殴られる痛みや殴る事による罪悪感も感じる事はありません。悪人を倒すことによる賞賛まで得ることができます。そして、そういったカタルシスを得ることで、その世界に依存してしまい、現実の生活を直視出来なくなってしまうのではないかという危惧を私は持っています。もちろん世間の人々は、ちゃんとオン・オフができて、日常生活との切り替えができる人が大部分なのでしょう。しかし、人間というものは居心地のいい場所を求めていて、そういった居心地のいい場所からはなかなか抜け出すことができないものだとも思っています。もちろん私にも、とうとう技術もここまできたのだなあという感慨は持っています。私は本来メタ・バースに繋がる仮想現実の世界に期待を持つべきなのかも知れません。そしてこの技術によってもたらされる未来を歓迎するべきなのかも知れません。この技術は、障害を持っていて外出できない人などにとっては、大きな福音になるとも思っています。現実世界は様々な葛藤があって、辛い事、苦痛を伴う事が多く、そんなストレスを抱えた中で居心地のいい場所に逃げたくなる気持ちもよくわかります。しかし、現実の世界では、辛い事や嫌な事を避ける事は、なかなか許してはもらえません。そういった事と折り合いをつけながら、より良い道を手探りで進んでいく事がまさに生きている事だと私は思っているのです。
Hotel California:迷い込んだ場所は涅槃なのか?それとも奈落なのか?迷宮の出口は果たして見つかるのだろうか・・・。
Hotel CaliforniaはThe Eaglesの曲で、1976年に発売になった同名のアルバムのオープニングを飾る曲です。Don Felderの12弦ギターのイントロがとても印象的な、少しウエットな憂いを帯びた曲で、イーグルスを代表する1曲です。この曲も含めて、収録されている曲は全て素晴らしい曲ばかりで、特にこのアルバムのジャケットが私は大のお気に入りでした。黄昏のホテルと椰子の木が陽炎に滲んでいる、いかにもウエストコーストという雰囲気が、アメリカへの憧れの気持ちを掻き立ててくれたものでした。ところが、詩の内容をライナーノーツで読んだら何とも不思議な曲で、それは、夜の砂漠をドライブする旅人が偶然たどり着いた宿は、決してチェックアウトできない恐怖のホテルだったというストーリーでした。最初の印象と実際の曲の内容のギャップに私は混乱してしまいました。そして「これは山姥の話だ!」と鳥肌がたった事を憶えています。大学生になって、スタンブリー・キューブリック監督の「シャイニング」というホラー映画を観た時にも、衝撃のラストシーンで、「これはホテルカリフォルニアの話だ」と全身”寒いぼ”まみれになりました。ホテルカリフォルニアの中ジャケットにはホテルのロビーが描かれていて、左上の窓には幽霊が写っていると言われています。ファンの間では有名な話で、確かにそれらしい人の姿が映っています。フアンの間では、ホテルカリフォルニアは精神病院の事を歌った曲だとか、薬物中毒者が集まる阿片窟の事を表現した曲だなどと、様々な解釈がなされています。しかし私には、バミューダトライアングルや山奥の山姥が住む荒屋、あるいはシャイニングのオーバールック・ホテルの様な、迷い込んだら二度と出てこれない異空間の方がしっくりときます。シャイニングの舞台は冬の閉鎖されたホテルですが、ホテルに取り込まれてしまったジャック・ニコルソンの姿と、ホテルカリフォルニアの旅人の姿、そして中ジャケットに取り込まれてしまった幽霊の姿が奇妙に符号してしまうのです。コンピューターテクノロジーの発展は私達の生活様式を劇的に変えてしまいました。ものすごいスピードで私たちの生活は便利になっています。私達はデジタルの技術なしには暮らしていけなくなってしまって、すっかりこの技術に取り込まれてしまいました。ホテルに取り込まれてしまった旅人と同じ様に、私達は二進法で構成されるデジタルの迷宮に取り込まれてしまって、決して外の世界に出ることが出来なくなってしまった様に私は感じているのです。
このような駄文を最後まで読んでくださってありがとうございます。
皆様にとって明日が今日より良い日になりますように。
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