こども家庭庁?? Strawberry Fields Forever

こども庁からこども家庭庁へ名称が変更されようとしています。私はこの報道を聞いて、こうしたことを決めようとしている人々に対して結構な熱量を持って怒りを感じています。「そんなんたいした問題ちゃうやろ」と多くの人たちはおっしゃられると思います。そういった方々は「要は子供の為に何ができるのか?何をするのかだ」ときっというのでしょうね。又、一部の方々は子供のことは大切な事だけど、今は国内外で喫緊の問題が山積していて、優先順位としてはコロナ対策、経済対策、国際関係の方が早急に取り組まなければならないと心の中で思っているのではないか、とひねくれ者の私は思っています。こうした考えの方々はおそらく細部について考えていないか、もしくは細かいことはどうでもいいと考えているのでしょうね。

 こども庁は構想の段階ではこども家庭庁という名称であったそうです。しかしながら、あくまでも子供たちの様々な問題について子供に焦点を当てて施策を行うという趣旨のもとでこども庁という名称になったという経緯があったそうです。またそこには、参考意見として寄せられた、幼少期に虐待を受けていて、家庭に不信を持ちながら成長してこられた方々の思いも反映されていたそうです。多くの子供たちが、虐待、貧困、いじめといった悩みを持ちながら生活しているという事実があります。この背景には複雑な家庭環境が原因であることが少なくないと私は思います。その複雑な家庭環境を正していく為に、安易に家庭という名前を加えればいいということではないとも私は思っています。要はそこに込められた理念や意思が大切なのです。そして、こども庁という名称にこめられた理念、意思にはこうした子供たちを一人残らず社会が支えてくというメッセージが込められているのです。

 それに反して、報じられているところの一部の伝統的家族観を重視する保守派といわれる方々は、「子供は家庭を基盤としており、家庭の子育てを支えることが子供の健やかな成長を保障するのに不可欠である」ことから、新しい省庁には家庭の文字を入れるべきだという意見のようです。私はこうした一部のいわゆる保守の方の凝り固まった考え方が苦手で、どうにも好きになれません。この人たちの多くは、どうも「何々であるべき」「何々でなければならない」といった「べきのヒト」が多いように思います。そして正論であるとその人たちが思い込んでいることや、正論ではあるが細部についてはあまり考えられていないことについて「べきだ!」「しなければならない!」と拳を振り上げているばかりだと思えてなりません。

 人間社会には様々な愛憎があって、人の感情についてはどうにもならないことも多いのです。そんな中で、あくまでも家庭が一義的であるという意見をいわれる方は、おそらく想像力が欠如しているのか、あえてそうしたことを考えないようにしているのかどちらかではないかと偏屈な私は思ってしまいます。また猜疑心の塊である私は、「子供には選挙権はないし、やはり選挙権を持っている父母、祖父母世代にアピールするには家庭の文字を入れたほうがいいねえ」などといっているんじゃないのか?という疑いを持っています。

 岸田政権についてもこども庁の立ち上げについて真面目にやっているようには私には見えません。岸田首相の2度の施政方針演説ではこども庁については一切触れられていませんし、子育て支援施策として行なった公明党のゴリ押しの子育て支援一時金のバラマキについても全く無駄とはいいませんが、単体での施策ではその効果には疑問符がつきます。私などは、むしろやるなら義務教育完全無償化と給食無償化の実施をなぜやらん?と思ってしまいます。こんなことよりも余程為になる施策だと思いますが・・・。残念ながら政権の中にいる野田少子化担当大臣の声がこの件については全く聞こえてきません。野田さんは一体どう思っているのでしょう?総裁選の時には「こども真ん中庁」といっていた野田さんだから、こども庁の名称にはこだわりがあると思います。是非とも鋭意岸田総理を説得してほしいものです。そして只今蛇行運転真っ最中の岸田総理も、この件についても聞く力全開で、お得意の朝令暮改をしてほしいと切に願っています。

 私は以前から、こども庁創設を含めた子供関連対策は経済対策や安全保障と同じくらい重要なテーマであると思っていました。悲しい思いをしている子、絶望の底に落ち込んでしまっている子、日々生きることに懸命で未来や希望について考えることができない子、こうした子供達に笑顔を取り戻してあげれるように、こども庁には子供達全員を家庭だけではなく社会全体で温かく包んであげれるように、そういう日本にできるような省庁に是非なってほしいと思っています。

Strawberry Fields Forever 少年時代のJohn Lennonに思いを寄せて。

Strawberry Fields ForeverはThe Beatlesの14枚目のシングル盤として1967年2月にリリースされました。両面A面シングルとなっているPenny LaneがPaul McCartneyの少年時代を表現しているのに対して、この曲はJohm lennonの少年時代が表現されているそうです。Penny LaneがPaul少年が見ていた当時の情景を素直な目線で表現した曲であるのに対して、Strawberry Fields Foreverは少年Johnの複雑な心情が難解な表現でなされています。私はこの曲を、中学生の頃、近所のお姉ちゃんから借りた、Beatlesのベスト版、通常青版と呼ばれるアルバムで初めて聞きました。当時感じていたのは、とても素敵な曲で、意味は全くわからないけれど何故だかとっても好きな曲でした。Strawberry Fieldは少年Johnがしばしば遊びに行っていた戦災孤児のための孤児院の名称です。少年時代のJhon Lennonは複雑な家庭に育っていて、手のつけられない悪ガキに育っていったそうです。この曲はそんなJhon少年の複雑な内面が表現されている曲であるように思えます。「現実は全て間違っていて、目をつぶった心の中にある自分だけの世界こそが現実だと思いたい」そんな風に少年Johnは思っていたのかもしれませんね。そして、Strawberry Fieldのお気に入りの木で一人だけで木のぼりをして遊んでいたのかもしれませんね。そうした光景を想像してみると、複雑な家庭で育ったLennon少年はいったい何を考えていたのだろう、何が楽しかったのだろう、何を夢見ていたのだろう、そういった思いを馳せてしまいます。そして、この美しい調べの曲が何か悲しいものに聞こえてしまいます。

このような駄文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

皆様にとって明日が今日より良い日となりますように。

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